4月前半の備忘録

おかげさまで今年の2月でこのブログは6周年を迎えたらしいです。今は7年目ということになりますね。
小学生で入った子が卒業してしまうくらいには年月を経ている。そう考えるとちょっと悪寒がしますが。
昔のブログをチラッと遡って読みましたが、当初はアニメを中心にやっていく予定だったんだなあと。今のブログからは微塵も感じませんが、プロフィール欄にその名残があるくらいです。
熱量は昔も今もあまり変わっていないような気はしますが、文体とかがちょくちょく違うので、他人みたいでおもしろかったです。
このブログは記録用的な役割はなく、ただただ自分の感情や分析を綴りたかったのが主なので、読み返せるほどの時間が経過したということで、「時間軸」という新しい軸が生まれたことに記録用的な部分が表出してきたんだなと思いました。ちょっと感慨深かったですね。

とまあ、ダラダラと文章を書くことは止めにしてそろそろタイトルに触れたいと思いますが。
要は「最近のこのブログ、イデオロギー強すぎるだろう!」という単純な理由です。まあ、ブログに書く=色々と伝えたい、色々と発信したい、そうなってしまうのでイデオロギーが強くなるのはしょうがないんですが、それにしたってねえ……ということです。
なので、感情爆発系というよりは、日記的にしてみようという試み。


6日の朝、高畑勲監督の訃報がニュースで入ってきました。
「悲しい」とか「辛い」とか、そういう感情はあまりなくて、人もいつか死ぬんだなという無常さみたいなものがありました。きっと、宮崎駿監督や富野由悠季監督が亡くなった時も同じようなことに思い耽るんだろうなと。

高畑さんの作品は客観的な視点を持っていることが多いですけど、そういうところが取り上げられることは少なくて、どうも外側の側面ばかりが取り上げられてしまいがちだなと思いました。『火垂るの墓』なら反戦、『平成狸合戦ぽんぽこ』なら都市開発みたいな。でも、それだけじゃないだろうという思いはアニメファンならほとんどあると思います。でも『火垂るの墓』は、涙なしには語られないわけです。
高畑さんは客観的に作りたいんですが、お客さんは感情移入して観てしまうんですね。
これって演出の話や脚本の話、作品論で語られるのかもしれないんですが、日本が舞台である以上は日本人のお客さんは感情移入してしまうのが性だと思うんです。『アルプスの少女ハイジ』、『母をたずねて三千里』そして『赤毛のアン』が客観性を保ち続けた名作として挙げられるのは、海外が舞台であることが必要な条件だったはずです。ただ高畑さん自身は日本人であることに拘った人だから、ジブリ以降の作品は全部が日本を舞台にしてるんですよね。その辺りは、戦前生まれだなと思ったりもします。ジブリ作品しか観たことのない人と『世界名作劇場』も観たことのある人で、高畑監督への印象の差が生まれるような気もするんです。やっぱりジブリ作品での高畑監督の客観性は難しかったのかなと思います。日本が舞台、というので包まれてしまうので。
個人的に、完成度の高さと隙のなさでは『三千里』なんですが、好きなのは『赤毛のアン』なんですよね。もっとテレビアニメに色んな価値をもたらした高畑監督の偉業は伝わらないもんか〜と思ったりしました。

7日は、Xenogears 20th Anniversary Concertへ行ってきました。
Xenogears』がかなり好きなんです。好きな要素は色々とあるんですが、グラフィックの部分がかなり好きなのかなと感じています。ドットなのに立体的な作りがされていて、色んな演出が観れるのがたまらなく面白いんです。高畑さんの言葉を借りるなら、「表現と内容は必ず一致していなければならない」というハードルを高い水準で達成したゲームなのかなと思います。そして、同じ手触りを持つ作品というのが他に浮かばないことから孤高の存在でもあるのかなと。
コンサートというもの自体、あまり参加したことはなかったんでちょいと不安でしたが、楽しめました。スクエニの前売り券発売から何回も予約して何回も落選して一般発売でも取れなかったので、若干スクエニアンチになってました。ただ、機材席解放の当日券がネットで予約販売されて、それが幸運にも取れたので(取れるのかよ!)、フワフワした気分で観に行きました。でも楽しかったです。
内容がどうのこうよりも、20年以上前のゲーム音楽を今の時代にコンサートとして開けるということがありがたいことなんだなと思いました。
特に良かったのはアンコールの『BALTO & LAHAN』です。本公演で厳かに歌唱していたANUNAの方々が、笑顔で手拍子をしながら舞台上に戻ってきて、一気に華やかになった印象がありました。アーティストのライブにおける手拍子って、あってもなくても結局は歌声があるので一体感もあまり感じないんですが、オーケストラの中にある手拍子というのは、それも楽器として機能しているのでライブとは違う一体感がより強くあったように思います。一番ニコニコ笑っていたおじさんが、リーダーだったと聞いて驚いたりもしました。
『BALTO & LAHAN』は、音源を聴いたことなかったんですが、アコギとエレキギターの噛み合わせが軽快で本当に良かったです。いつか買います。(公演後のグッズ販売でテンション上がってオーケストラアルバムを買ったけど、そっちには収録されていないという……)

ゼノギアス アレンジヴァージョン クリイド

ゼノギアス アレンジヴァージョン クリイド

9日、サッカー日本代表ハリルホジッチ監督の突然の解任騒動。これに関してはツイッターなどでちゃんとした文章で書かれているので、そちらの方々の意見にほぼ同意です。
「あり得ない」んですよね。どれだけ良い風に解釈しようとしても無理な辺り、ちょっと頭がおかしいとしか思いないんです。「日本らしいサッカー」とか言ってるけどキチンと説明できていない日本人。そのくせ外国人監督を突然解任するJFA。全てを監督の責任へと転嫁しようと試みる日本人。
高畑監督のことを色々と調べていたタイミングでもあったので、日本人であることをここまで嫌になった日もないと思います。まあ、まだ色々と情報が出てきそうなので長々と書くのはやめておきますが。

話は前後しますが、アニメスタイルの撮影イベントにも行っていました。結構、アクティブですね。
第三回のイベントだったらしく、撮影の歴史とかを振り返ってました。
個人的には撮影の話も面白かったんですが、時節アニメ様の話に逐一頷いていました。「3DCGのロボットアニメ作品が増えていく中で、人間っぽい動きのあるロボットは減っていった」とか「今のアニメはセクション毎の区切りが曖昧になっている」とか、分かるわ〜と頷きながら聞いていました。
一番なるほどと思ったところは「今のアニメはセクション毎の区切りが曖昧になっている」ところの話で、この辺りはちょっと記憶が曖昧ですが、すごい納得できるんですよね。
ここら辺の話をちょっと飛躍させると、今のアニメって「オタク的な観方がしづらい」作品が多いと思うんです。コンテ、作画、美術の区切りはある程度分かります。ただ、このイベントでも話題になった「撮影技術の進歩」により、色んな箇所で撮影処理が施されています。そのため、純粋な作画だけ、美術だけ、特効だけ、というのはあまりないと思うんです。観ている映像には、なにかしらの処理が施されています。だから作画や美術や単純に話題にするのが難しくなってるんだと思うんです。今はアニメに統一感が求められている時代なんですよね。それってアニメをただ楽しむ層にはどうでも良いことではあるんですが、オタクやアニメファンにとってはちょっと不幸なんじゃないかと思ったりもしました。
セル画の時代のアニメ、特に80年代前後のアニメは誰がどこを作画で担当したか、どこに修正が入っているか、どんな撮影処理が入っているか、今よりも分かりやすかったと思います。そして各話にバラつきがあっても、それを楽しむこともアニメを楽しむことの一つだったはずです。今はやはりどこか統一感が求められている時代なんだと思います。

そういったことにも踏み込みたかったイベントだった気もしますが、撮影が主のイベントだったので踏み込みはしませんでした。でもアニメ様はそう思ってたんじゃないか……! こうやって推測することがオタクの性だなあ、と思ったりもしました。随分古いタイプな気もしますが。

この人に話を聞きたい アニメプロフェッショナルの仕事 1998-2001 (ANIMESTYLE ARCHIVE)

この人に話を聞きたい アニメプロフェッショナルの仕事 1998-2001 (ANIMESTYLE ARCHIVE)


総じて高畑監督やハリル監督のニュースから、「情報を伝えることにおいてのテレビメディアの限界」を感じたりもしました。
そんなことを感じた4月前半でした。
おしまい。