『おもひでぽろぽろ』の凄味

関係ないですけど、『おもひでぽろぽろ』って早くタイピングしようとすると難しいですね。自分だけでしょうか。
高畑さんは作品を作るたびにアニメにおける表現方法にもこだわってますよね。映像表現と言うべきなのか。新作の『かぐや姫』もそうだし。『おもひで』でもこだわってますよね。過去回想の背景と、現代の背景をはっきりと分けている。すごいわかりやすくてストーリーに直接関係あるのがいい。

初めて観た時の印象としては、メンタルに来る映画だと思いました。特に末っ子にはキツいんじゃないかと。で、作品自体が気になったのでWikipediaで調べると、原作がアニメ化するには難しい。
さらに気になったので読んでみました。アニメージュコミックスワイド版、図書館に三巻あったので全部読んでみた。(全三巻なのかは不明。調べてない)
予想はしてたもの驚いたのは、原作全編がアニメにおける過去回想だったこと。山形の親戚の家に行くタエ子なんて存在してなかった。原作漫画は、誰もが体験してきたのような原体験を普遍的に伝えようとしているように読めた。これはなかなかできるもんじゃないな、とも思った。
確かにこれをアニメにするのは難しいと思った。なにしろ、オムニバスのようなショートショートの連続なので一貫したストーリーがない。原作漫画はどこまで行ってもふわふわとした少女の物語だけ。
高畑さんはそれだけをただアニメにするだけじゃ、映像にするだけじゃ映画としては成り立たないと考えたと思うんです。だからそのときに使った手が小学五年生から16年後経ったタエ子を作ることだった。でも、ただ作るだけじゃダメで、そこがストーリーに関わらなきゃいけない。そのためには男を出さなきゃいけないし、その人物と会話するためには日本の農業事業を論じなくちゃいけないと考えた。

なおかつこの映画の肝はタエ子の過去回想だと思う。全ての思い出は原作漫画にあり、映画オリジナルのエピソードはない。原作を読んでいて思ったのが原作漫画からの抜粋のうまさだ。全三巻(?)の全てを過去回想に入れるわけにはいかない。尺の問題もあるだろうし。だから抜粋しなくちゃいけないんだけど、その抜粋したエピソードが良い意味でメンタルにグロテスクなものばかり。父親にぶたれるエピソードでは、原作の場合には激怒した父親へのフォローがモノローグで入っている。熱海でのぼせるエピソードでは、帰ってきても元気にラジオ体操しているが、映画だとそこはラジオ体操の音楽だけしか聞こえない。高畑さんらしい客観的な作りだけど、こたえる人にはこたえると思う。
これには、映画を見る不特定多数の観客の原体験を刺激している作用があると思う。そのうえで現代のタエ子の人格形成の役割も果たしてると思う。人間を描くという簡単でもあり難しいことをやっている。主人公の過去を見ると、現代のタエ子のような人間になると思えなかったりするのだけれど。
自分の簡単な感想としては、メンタルにグサグサくる話は好きなので、もちろんこれも好き。原体験という言葉を考えるきっかけになった。しかもそれを生かすのは難しいとも思ったからこの作品は凄いと思った。

高畑さん的には現代に生きるタエ子を作り出す目的でエピソードを作ったのかもしれない。観客の原体験を刺激して過去の思い浮かばせようとしたのかもしれない。どちらも狙ったのかもしれない。どちらも狙いを持って作ったとしたら、そんな事はなかなかできるものじゃないと思う。

おもひでぽろぽろ』は高畑勲の映像表現へのこだわりと原作を生かす技術、そして原作自体の魅力が詰まりに詰まった、見事な映画だといえるだろう。

「ホルス」の映像表現 (アニメージュ文庫 (F‐002))

「ホルス」の映像表現 (アニメージュ文庫 (F‐002))