「青春もの」の難しさ

「青春もの」と括る場合に広い括り方をしているように思われるが、その広さが「青春もの」の難しさを物語っている。
「青春」と聞いてまっさきに思い浮かぶものは、高校生だろう。
高校生たちが喜怒哀楽の全てを表して生活してる様を観て、読者や視聴者も感情移入して楽しむ。これが「青春もの」を楽しんでいる人たちである。
高校生ではないときに高校生たちが主役の物語を観て、読んで、近くある未来に儚い幻想を抱いてる少年少女もまた「青春」を過ごしているだろう。
自分には「青春」という二文字に強いこだわりがあり、また強い呪いがかけられてると思う。
それは自分の経験によるものだろうが、楽しすぎた中学生時代、つまらなすぎた高校生時代、この二つの偏った変化が今の自分を作っているようにも思える。
高校生の時間が無駄だったとは一概には言えず、もっと昔の自分を理解し分析し自分という存在を整理する時間になったと今になって思う。だからこそ今の自分の性格を理解しているし好きでいられる。

作品においての「青春もの」は多くあり、アニメでは1クールに数作品は存在する。
ただ「青春」といってもジャンルはコメディ、SF、ミステリー。あまり偏りがないかもしれない。「青春」一筋の道をいくものは少なく、それは当たり前のことで「青春」というジャンルは存在しない。
高校生が主役なら勝手に「青春」というジャンルにカテゴライズされる。だから重きを置くのがどのジャンルかで「青春」は薄くも濃くもなる。

自分が好きな小説に『古典部』シリーズとまんがに『帯をギュッとね』がある。
前者は近日『氷菓』としてアニメ化される。「青春」におけるほろ苦さを描いており、ファンとしては未だにしんじられない。
一見、地味とも評されるかもしれないが、そこに親近感がありリアリティが存在する。

後者は柔道漫画でありながら熱血し過ぎず爽やかに描かれている。またキャラクター一人一人、登場が少ないキャラでさえ魅力的なのはさすが河井克敏作品と言ったところ。
同時期のジャンプで連載していた『スラムダンク』では部活を辞めたヤンキーが殴り込みに来て一騒動起きる感動的な場面がある、しかし『帯をギュッとね』にはない。だからこそ今読んでもリアリティがある。もちろんどちらも面白い。
自分は『帯をギュッとね』が、この作品の中に飛び込みたい! と錯覚させるような作品に感じる。それはキャラクターのノリによるものかもしれない。

話を本題に移そう。
自分の中で「青春もの」はいかに親近感があるかで決まる。もちろんどんなジャンルかにもよるが。
親近感のあるキャラクターがいることによって初めて感情移入できるし、それができなければ物語がどれだけ盛り上げようと自分の中では物語が一向に盛り上がることなく終わる場合もあるのだ。盛り上がろうとも、下がろうとも、自分がただの傍観者になってしまう。感情移入できるキャラクターのいないアニメは確かにあるが、自分たちが感情移入できる傍観者の立場にいる役は必ず存在するはずだ。
親近感がなければ「青春もの」としてのリアリティが欠如してしまう、「青春もの」の難しさがここにあるのだ。

描くジャンルによって「青春」は必要にもなるし、全くいらないものにもなる。空気感を単純に描けばいい作品もあるかもしれない。しかし誰もが通った道である「青春」を描くとき、そこに親近感がなくリアリティも存在しなければ、それは気味の悪い物語になってしまう。

「青春もの」とは難しいジャンルではあるが見事描ききったときにそれを観たもの、読んだものが、その作品を自分の中にひとつの「青春」として存在する、一生忘れられない作品になるのだ。